“Cocoa”

これは、ある意味 運命だったのかもしれない。

もし、地球上のありとあらゆる生命すべてに生まれつき与えられた道をそう呼ぶとするなら、

きっとそうなんだろう。

別に仏教徒でもなければキリスト教徒でもないんだけど、 その他に例えようがないから。

*Cocoa*

神山さん

学校を出た裏通り、少しひんやりと した秋風によく通る声に振り返ると、

穏やかな瞳がこちらを見ていた。

今、帰りですか?

頷くと、途端に彼の表情はパッと華やいだ。次の瞬間には、安堵のため息。

よかったら、ご一緒させていただけませんか?

断るわけがない。 だって、断る理由がない。

頷くと、私はゆっくり歩きだした。

並んで歩くことはしない。 ―――ううん。“できない”の。

一教師と一生徒が肩を並べて下校してるところなんて誰かに見られたら、

お互い学校にいられなくなるどころか、校内外問わず好奇の目に晒される。

それは、私たちにとって どんな仕打ちよりも耐え難いことだった。

私が先に歩いて、 水野先生が後から付いてくる。

素っ気くて礼のないような気もするけど、これでいいんだ。

あの……神山さん

振り返ると、先生はスッと 左を指した。

そこには、小さな喫茶店。 異国情緒のある、年季の入った佇まいだ。

こんな所に こんなお店があった なんて、今まで気づかなかった。

ここのココア、とても美味しいんですよ。お時間があれば、寄っていかれませんか。

無論、私は頷いた。 理由は、さっきと同じ。

断る理由がないから―――――。

店内はいたってシンプルなつくりだ。

全体的に暖色をモチーフに コーディネートされた、癒し系の空間。

雰囲気もあって流行りそうなのに、 お客は私たちだけ。

隠れ家的なところなのだろうか。

年季の入ったオーディオからは、 独特の渋さを持ってゆったりとジャズが流れている。

普段ジャズなんか聴かないけど、 この手のお店で聴くと馴染み深い、

どこか懐かしくて耳障りのいいものになるから不思議。

いらっしゃいませ。 おふたりさまですね。

奥のバーカウンターから出てきたこの初老の男性が、どうやらこのお店のオーナーらしい。

彼もまた、この店の雰囲気に似て 柔和な雰囲気だ。

こんにちは、佐倉さん。 今日もまたお邪魔してしまいました。

これはこれは、水野さん。 毎度 懲りもせず、こんな薄汚れた 年寄りの店へようこそ。

おや? 今日は、生徒さんもご一緒ですか。

神山さんですよ。 ほら、前にお話した……その……

おぉ! 水野さんの“イイヒト”ですね

“イイヒト”……?

感心したように何度も頷くオーナーに、先生は頬を赤らめて恐縮そうに 両手を振る。

あ、いえハイ……ちっ違います!

神山さんはその……勤務先の 生徒さんでして、決して僕は そんな……

ははっ……分かってますよ。 では、そういうことにしておきましょう

佐倉さんっ……!

意地悪な彼の言葉に 心底焦った様子の先生。

授業じゃいつも女の子たちに からかわれて こんな感じだけど、

ここでの先生は、いつもより もっと子どもっぽく見える。

白衣を着てないせいかな。

佐倉さんに案内されて、 アンティークな暖炉に一番近い席に座った。

冬場は本当に使われているのかも。 今にも木炭の臭いがしてきそうだ。

似てますねぇ

ふいに、感傷に浸るよう穏やかに 微笑むオーナー。

まるで すべてを優しく包み込むものだったので、 思わず私も見入ってしまった。

水野くんのお父さまも、ここに 彼女を連れてきてくださったことが あるんですよ。

黒髪の綺麗な、 清楚で しおらしいお嬢さんでした

そうなんですか? 黒髪……母ではありませんね。

その方のお名前は?

存じ上げていたはずなのですが、 生憎 何十年も昔の話ですので

そうですか……。

残念そうに肩を落とす先生。 その様子にオーナーも申し訳なさそうに表情を曇らせたけど、

突然パチン!と高く手打ち音を 響かせた。

代わりと言ってはなんですが、 ココアをお作りする合間に、ちょっとした小噺でもさせてください。

もちろん、水野くんのお父さまと あのお嬢さんのお話を。

オーナーの提案に、 先生の目が輝いた。

はい! 是非お願いします。

その明るい声に、 優しく微笑むオーナー。

どうやらカウンターの方へ 戻るみたい。

ゆっくりと、一歩一歩を 踏みしめるかのように歩きだした。

―――あれは、この街にその年 初めての雪が降りだした日の事でした。

その日 仕入れたばかりのカップを 拭いておりましたら、

水野くんのお父さまが、同い年くらいのお嬢さんを連れていらしたのです。

学校帰りなのでしょう。 寒さに身を震わせ、見慣れない 手製のマフラーを巻いたお父さま。

お嬢さんの方はコートを羽織られており、所々 赤みの差した手を 温めておられました。

私は、おふたりを暖炉近くの席に ご案内して、ココアをお出ししたのです。

ここのココア、とても 美味しいんだよ。飲んでみて

ほんと。とても美味しそう。 いただきます。

お嬢さんは、お出ししたココアを じっくり観察されました。

そっとカップに口をつけて程なくして、お嬢さんの瞳が一層大きく 見開かれました。

とても美味しい……。 素敵な味ですね。

素敵な味―――――。

その時、これを聞いた私は とても幸せな気分に浸ったのです。

言葉には“霊”が宿っている――― などと申しますが、

その時は本当に、 心からそれを信じましたね。

私にとって、お嬢さんの言葉は 何よりの幸せになりました。

今から思えば、それがとても 不思議でして。

彼女が、水野くんの大切な人に なれば良いなどと勝手なことを……。

その後も お父さまは何度も お嬢さんと一緒にいらして、

お出しするココアを何やら楽しそうな 談笑とともにお楽しみくださいました。

ところがある日、珍しいことに お嬢さんがおひとりで来店くださった時がありまして、

私は思わず口を滑らせて お尋ねしたのです。

“待ち合わせですか”と。

すると、お嬢さんはひとつ笑顔を 浮かべられてから、仰いました。

何故そうなったのか分からない。 でも、そうせずにはいられなかった。

喫茶店からの帰り道、 私は先生にしがみついていた。

先生と、離れたくなかった。

今までみたいに距離をとることも、 人目を気にすることも忘れて。

私より大きい先生を抱きしめ切れないのがもどかしくて、何度もその胸に顔をうずめた。

神山さん……?

戸惑ったような、 不安がるような先生の声。

それでも、私はこの手を離すことが できなかった。

怖かった。

恐れていたことが 現実になりそうで……。

ずっと抱いていた。 でも、ずっと目を背け続けてきたこと。

“私は、先生が好き”。

本当は甘えたい。 学校にいる時も、外にいる時も。

ずっとずっと、離れたくない。

でも、先生は教師で、私は 先生のいる学校の生徒で……。

そんなどうしようもない壁が、 私を冷たくさせていた。

大丈夫。僕は、あのお嬢さん みたいに他の学校には行きません。

そんなの…… 言い切れないじゃない。

異動だって、好きで異動するわけでも留まれるわけでもないのに。

私だって、卒業するじゃない。 なんでそんなことが言えるの。

分からないじゃない。

もしかしたら、 それが運命かもしれない。

結ばれるのが、すべて 運命ってわけでもないんでしょ。

イヤ……離れたくないっ

初めて言葉として出ていった、 正直な私の気持ち。

自分でも驚くくらいそれは 弱々しくて、痛々しくて……

どうしようもなく震えていた。

体中 熱くて、倒れそうなくらい 不安定で頼りない。

起こってもいないことに、 涙はどんどん溢れ、流れていく。

微かに、先生の吐息が聞こえた。 途端、先生の腕に包まれる。

強く抱きしめられて、 背伸びした足が爪先立ちになった。

温かい……

あのココアのぬくもりにも似た、 甘い安心感。

よりはっきりと耳に残る、 先生の鼓動―――――

離れないよ。 ずっと、一緒にいてほしい。

その日、私は先生の “イイヒト”じゃなくなった。

甘いぬくもりを宿した言葉は、 夜空の下、臆病だった私たちのひとつになった心を祝福するように

白く降り注いだ。

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Posted at 2014/10/10 19:11 Viewed 7 times

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